煎餅 ++せんべい++

///煎餅///

小麦粉または粳米、鶏卵水飴、味噌などを原料に一定の形で焼いたもの。表面に醤油を塗ったりゴマや海苔をつけたりと全国に様々な種類の煎餅が売られています。
中国では7世紀初頭の「荊楚歳時記」や「唐六典膳部職」に登場するほど古く、正月七日、三月三日に食べる習慣がありました。日本では弘法大師が唐の長安に渡り真言密教を学んで帰国した際に、亀甲形の煎餅の製法を聞き、帰国後に山城国嵯峨小倉里の和三郎に亀の甲煎餅の製法を伝えたことが始まりとされます。この亀の甲煎餅は、いま下関名物になって残っています。その後和三郎はいろいろな菓子を考察して諸人に伝えたとされます。その中に米粉に塩で味をつけて蒸し、薄く延ばして丸型で抜き、天日に干したものを鉄板で焼いた塩煎餅もあります。
こうして奈良時代唐菓子として伝来した煎餅は小麦粉を練ったものを胡麻油で煎った主食代わりで、菓子の性格を持つようになるのは室町以降です。江戸時代になると製法も改良され、塩や砂糖を入れたりして多くの名物煎餅が誕生しました。

///瓦煎餅///

小麦粉鶏卵砂糖、蜂蜜などを使い、屋根瓦の形に焼いた堅くて甘い煎餅。江戸時代の初期の製法は、材料をこねて蒸篭で蒸し、小さくちぎってのし、乾かして鉄の焼き型で両面をあぶっていました。煎餅の元祖「亀の甲煎餅」もこの製法です。香川県高松市の久つ和堂、東京都上野亀井堂本店、兵庫県神戸亀井堂総本店などが有名。神戸の瓦煎餅の起源は「紅梅焼」で、そこから明治4年頃に瓦煎餅を作ったとされます。

///塩煎餅///

粳米粉をよくこね乾燥させた後に、焼き上げたもの。醤油とみりん・砂糖を混ぜた液を塗って味付けしたり、砂糖をかけたりすることもあります。かつては農家の間食用に作られていました。江戸時代になると流行し、文献にも「塩せんべいといふものむかしの煎餅にて廃れて後近在にて稀に見えしをこの頃は江戸にも流行りて本所柳島辺にて多くつくり、所々の辻にて駄菓子と同じく売り、また神仏の縁日にも持ち出て売る」とあります。埼玉県草加市の草加煎餅は代表的な塩煎餅です。草加煎餅の起源ははっきりしませんが、宿場町の団子屋さんが団子を平らにつぶして天日で乾かし、焼き餅として売ったのが始まりという説があります。

///南部煎餅///

青森、岩手、宮城県などで作られている素朴な煎餅。糖分を使用しない淡泊な煎餅で、生地を型に入れて焼く際にゴマ、落花生、胡桃、抹茶、海苔などいろいろなものをのせます。
元々は農家が片手間に主食代わりにそば粉を練って焼いて食べていました。建徳年間(1370〜1371)に長慶天皇が青森県南部八戸地方を行幸の折り、従者が農家からそば粉とゴマをもらい雑兵の鉄兜を鍋にして焼いて献上したところ、大変喜ばれたのが由来です。南部砂鉄の鋳鉄で煎餅型を鋳造したのを機に、江戸からの小麦で小麦粉煎餅に変わりました。はじめて商品として売買されたのは1830年に南部支藩八戸2万石の城下で売られたものと伝えられています。

///紅梅焼///

小麦粉砂糖を水でこね、寝かせて発酵させてからめん棒で薄く延ばし、短冊や梅花、扇面の型に抜き、胡麻油を塗った鉄板でこんがり焼いたかわいい煎餅。
起源は東京浅草梅林堂の製品です。享保年間(1716〜1736)浅草観音堂の境内に名木の紅梅があり、その木の陰で梅花の形をした小型の煎餅を焼いて売ったところ、ゆかしい風味が好まれて江戸名物になりました。名木にあやかって紅梅焼と呼ばれるようになり、あまりにも有名になったため、江戸の至る所に紅梅焼を売る店が出現しました。江戸時代末期には江戸駄菓子の一つとして人気を博しましたが、梅林堂の紅梅焼だけは別格とされました。
銭形平次の生みの親、野村胡堂や夏目漱石、円地文子などにも愛された菓子です。