++もち++

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日本に稲作文化が渡来したのは縄文時代の晩期で、当初の米は赤い色素を持った糯米タイプで、容易に「餅」になりやすい米でした。餅の歴史は古く、奈良時代には各地から平城京に餅を送ったという記録が残っています。当時の餅は白餅、大豆餅、小豆餅、胡麻餅、栗餅などがあり、鏡餅が登場するのは平安時代からです。この鏡餅のように、餅は祭事・仏事の供え物として今も昔も慶事に欠かせない食べ物で、神に供するため神の象徴である鏡の形に型どりました。二重にするのは「日と月」「天と地」などを意味するからとされています。平安初期には官営の事業であった餅搗きは、中期になると商売にして生活する人もいました。鎌倉時代に入ると、餅はいろいろな儀式にも用いられるようになり、室町時代には茶道の発達と共に茶道菓子として用いられました。江戸時代に入って生菓子の完成と共に餅菓子も発達し、全盛時代を迎えます。
餅は白いため色がつけやすく、味がほとんどないので様々な材料を混入することができ、水分や砂糖を加えると柔らかくなるので、餅菓子のバリエーションは数限りなくあります。

///草餅///

よもぎの若葉をつき混ぜた餅で餡を包んだもの。若草色やよもぎの香りが春を感じさせ、3月3日の雛節句に食べるなど、この季節のお菓子として親しまれています。よもぎはゆでてあく抜きをし、小分けして冷凍保存すると年中その色・香りが楽しめます。包む形はくわい形・木魚形・蛤形・きんちゃく形・編み笠形・千鳥形など様々です。
太古はよもぎではなく、春の七草に歌われているごぎょう(ははこぐさ)が使われていましたが、香り・味・色・薬効に優れるよもぎが中国から入って、今のものに変わっていきました。女の子の健やかな成長と幸せを願って、薬草とされたよもぎを餅に混ぜて贈ったのが草餅の始まりとされています。雛の節句は草餅の節句ともいわれます。

///桜餅///

桜餅には大きく分けて2種類あり、関東風は小麦粉の薄い焼き皮で小豆餡をくるみ、塩漬けの桜の葉で包みます。関西風は糯米や道明寺糒を蒸したもので餡を包み、桜の葉を巻きます。桜の葉の塩味もきいて香り高い春の名菓。
東京向島山本屋の「長命寺桜餅」が元祖とされています。享保2年(1717)長命寺に住み込んだ門番山本新六は向島堤の桜の葉の掃除に悩まされ、何とかよい利用方法はないかと試みに醤油漬けにして売ってみました。売れ行きがよくなかったので今度は塩漬けにして餡餅にくるみ、「桜餅」として売ることを思いつきました。これが花見客に大いに受けてついには江戸名物の一つになりました。

///大福餅///

餅を薄くのばし、風味のある粒餡をたっぷり包んだもの。ゆでた黒豆を入れた豆大福、よもぎを入れたよもぎ大福、ゴマ入りや栗入りなど様々。中国ではこの餡を包んだ餅のことをアンピンと発音し、日本でも一部の地域で「あんぴん餅」といいます。
大福餅は明和9年(1772)創製されて流行しました。元禄直後は小豆の塩餡を包んだ大きな餅であり、焼くと膨れ上がることから「腹太餅(はらぶともち)」と呼ばれ、腹が太い-->福々しい、から転じて大福餅となったとされます。やがて砂糖餡の大福餅が現れてからは塩餡のものは姿を消してしまいました。江戸時代の中頃、江戸で大流行し、夜には饅頭売りが焼き鍋に大福餅を並べて売り歩いたとされます。寛政10年(1798)の記事に「元来は馬夫などの者が食べたはらぶと餅というものを少し丁寧に拵えたもの。蒸し焼きにして温かくして食べると冬の寒い時期にはよい餅である」といった内容のものがあります。

///柏餅///

5月5日の端午の節句に供物やお祓い餅として粽とともに和菓子屋の店先に並びます。蒸した上新粉の餅を円形扁平に作り、中に餡を入れ二つ折りにして柏の葉で包みます。地域によって包む葉が変わる場合もあり、主に関東は本柏の葉、関西はサンキライの葉で包み、餡も小豆と味噌の2種類あります。
いつ頃からできたかははっきりしませんが、寛永年間(1624〜1644)頃に節句菓子として定着したようです。当初は塩餡を用いていたようですが、江戸時代後期になって小豆餡や味噌餡が一般的になりました。柏は新芽が出ないと古葉が落ちないことから、家系が絶えない縁起の良い植物として男児の節句に使われるようになりました。「守貞漫稿」5月5日の項で「男児生まれて初の端午には粽を配り、二年目よりは柏餅を贈る・・・江戸にては初年より柏餅を贈る」「赤豆餡には柏葉表を出し、味噌には裡(うら)を出して標(しるし)とす」という風習が記されています。

///鴬餅///

春の訪れをいち早く伝える餅。皮は求肥を用いることが多く、餡を包んで両端を引っ張り、鴬の形に似せてきな粉青きな粉などをふりかけて作ります。
奈良県大和郡山市菊屋の「御城之口餅」が始まりとされます。大和郡山は天正13年(1585)に国替えとなり、豊臣秀長が入城。秀長の命により菊屋は郡山城大手門入口の現在地に菓子商を始めました。後日、秀長が秀吉を招いて城中で茶会を催し、菊屋が創作した餅に秀吉が「鴬餅」の名を与えました。「鴬餅」は菊屋の店が城の入口にあることから、いつの間にか「御城之口餅」といわれるようになりました。

///椿餅///

糯米を蒸して道明寺粉を入れてつき、砂糖を加えたり、あるいは餡を包んだりしたものを椿の葉2枚ではさんだ餅。平安時代には8種の唐菓子と並び14種の果餅の一つに数えられていました。『源氏物語』「若菜」の段に「椿もち、梨、柑子やらの物ども、さまざまに、箱のふたどもに取り混ぜつつあるを、若き人びと、そぼれ取りくふ・・・」とあり、蹴鞠の催しに用意された食物であったことがわかります。当時の製法は道明寺糒に砂糖を混ぜ、蒸してついた後、先を切った椿の葉で合わせたものでした。

///鹿の子餅///

餅を餡で包み、その周りに甘く煮た小豆、または白いんげんをはりつけたもの。鹿子絞りや鹿の斑に似ていることからこの名があります。餡の代わりに羊羹を使う場合もあります。寛永年間(1624から1644)の頃、江戸の人形町で歌舞伎役者の三枚目俳優が売り出したものといわれています。店はぜんまい仕掛けのからくり人形にお茶を運ばせるなどのアイディアで人気を集めていました。

///わらび餅///

蕨の根からとった澱粉に水を加えて練り、冷やし固めて切ったもの。黒蜜やきな粉をかけて食べる夏の涼菓。現在はわらび粉が不足しているため、サツマイモの澱粉を使うことが多くなりました。起源は奈良時代までさかのぼり、室町時代には点心としてわらび粉だけで作った餅が用いられました。江戸時代には原料不足から葛粉が混ぜられるようになり、今日では練りを強くするために白玉粉を混入したりします。昔は軽い食事として食べられていました。
わらび餅の作り方

///氷餅///

のし餅を水に浸して凍らせて乾燥させたもの。主に和菓子の飾りに使用します。鎌倉時代の文献にその名がみられることから、古くからあったことがわかります。江戸時代には旧暦六月の氷室の節句の際に食べるようになりました。江戸時代に氷餅の一般庶民の私造は禁止されましたが、明治になって民間でも製造されるようになりました。現在、東北地方の名物として小豆やよもぎ、黒ゴマを混ぜた餅を薄く切って干したものがあります。